90年代、ソビエト崩壊後のウクライナ・キエフ。売れない短編小説家のヴィクトルは、1年前からエサをやれなくなった動物園からもらい受けたペンギンと暮らしている。恋人に去られたばかりだったヴィクトルは孤独だったけれど、
「ペンギンのミーシャがそこへさらに孤独を持ちこんだので、今では孤独がふたつ補いあって、友情というより互いを頼りあう感じになっている」…停電で真っ暗なアパートをペンギンがのんびりと歩きまわる音と外で響く銃声から始まる物語には、冒頭のこの部分だけで引き込まれてしまいます。
新聞社で「まだ生きている人間の追悼記事」を書くことになったヴィクトルの、どこかものさみしいけれどささやかに安定した日常に、次第に「死」や「誰かの意思」や「組織」といった非日常が滲み出してくる物語。だけどヴィクトル自身は何が起こっているのか、誰が背後で動いているのか知る術はなく、だから一層読んでいるこちらも足元がぐらぐらするような不安定な気持ちになる。決して明るくはない物語なんだけど、全編を覆う孤独感と存在の心許なさ、必死にしがみつこうとする「普通の」日常は何だか覚えのある近しい感覚で、時々じくじくとする痛みとそれをやり過ごすようにして生きていこうとする毎日、それでも時につぶやかずにいられない言葉たち(「この世で俺を待っててくれる人がだれかいればなあ!」)…が、じわーっと沁みてくるのよね。
ペンギンのミーシャと、「ペンギンじゃないミーシャ」から預けられた娘・ソーニャとの奇妙な共同生活。ソーニャの幼いもの言いとヴィクトルとのたどたどしいやり取りや、大げさな感情表現はないんだけど、そっとひざに頭を乗せてきたり、じっと見つめたり、たまにつついたりするミーシャがいいんだ〜。憂鬱症で不眠症のミーシャはいつもどこか哀しげに黙って立っていたり、静かに歩き回ったりしているだけなのだけど、その存在には私まで慰められます…。夜の散歩とか氷上ピクニックとかね。ずっとそんな風に過ごしていければこれはなかなか心温まる物語なんだけど…表紙イメージでそういう話を期待してはいけません・笑。最後まで読めばタイトルもなかなかブラックね…装丁とのギャップが却って味わい深いです。
「悲劇を喜劇に、喜劇を悲劇に転化」とは折り返しに載ってたタイムズの書評ですが、うん、そんな感じ。淡々を日常と非日常を、ささやかな暖かさと不気味な見えざる手を綱渡りのような微妙なバランスで行ったり来たりするうちに、いつの間にかそこに漂う孤独感とさみしさに身を委ねている。それはとても身近な感覚だから、冒頭にあったように「孤独を補いあって」暮らす姿には哀しくも救われるし、だけどその必死で保とうとした日常が砂がぽろぽろ落ちるように欠けてはまたさみしくなったりもする…。セルゲイの死やニーナとの「愛はないけど幸せごっこ」は痛かったりもしましたが…。それでも悲劇と喜劇の揺れ幅が大きくないので、こういう話なのにどんよりダークな気分にはなららないのよね。ただざわざわと余韻の残る、そして不思議にまた戻ってみたくなる(孤独に浸ってみたくなる?)物語なのでした。
実際にウクライナの作家の書いたロシア圏の物語ということで、普段あまり触れる機会のない系統だったのですが、すごく印象深かったです〜。このラストというか物語としては私的には完結してると思うのだけど、ミーシャのその後だけは気になります…><

アンドレイ・クルコフ(新潮社)