山間の村のプラネタリウムで拾われたふたごの赤ん坊は、泣き出したその時にドーム上に輝いていた彗星の名をとってテンペルとタットルと名付けられた。三方をパルプ工場に、北側を禁猟区の山に囲まれたその村で、解説員の泣き男を父とし、日に六回ずつ日の出と日没、季節ごとに移り変わる夜空を見て一緒に育ったふたごは、やがて訪れた手品師の一行をきっかけにそれぞれ別々の空の下で生きていくことになるー
初いしいしんじ。主に通称やあだ名で呼ばれる人々と、どこか外国のようでいてでも少し前の日本にも思えるような風景の物語は、宮沢賢治に通じるような印象がありました。かっちりした名前で規定されない世界は境界が緩やかで、今自分がいる世界と重なってすぐ側に存在しているかのようで、普通に道を歩いていたらいつの間にか入り込んでいたみたいな。そこではテンペルとタットルが村人や遠くから働きにきている工員たちに手紙を配達し、プラネタリウムでは時々風船が舞ったりのアクシデントがあっても季節ごとに変わらずに空を映し、山では冬の解禁期だけは男たちが山言葉を使って熊を追っている。目に見えない「まっくろくておおきなもの」に囲まれていた世界でそれでもささやかな出来事に彩られていたふたごの日常は、手品師としての道を歩き出したテンペルとプラネタリウムで時々オリジナルの解説をするようになったタットルとに分かれてからも、特別ドラマティックに転がり始めるわけではなく、でもやっぱりそれぞれささやかな出来事で淡く塗り重ねられていくのだ。
「どんな話」かと聞かれればそんな感じで(限りなくアバウトな感想)、「何の話」なのかと聞かれれば、私にはふたごの人生の物語と言うよりも、同じ星の下で緩やかに繋がった世界の話だなーという気がしたな。「うしろにまわした六本目の指を、みんな密やかにつなぎあっている」…それは手品師だけの世界のことではなく、人生の中で深く関ったひととの間にはきっと遠くにいても繋がっている特別な空間が生まれるのだ。とは言っても観念的宗教的な意味で繋がってるわけでも独りでも大丈夫ってことでもなくて、同じものを見て同じものをきれいだと言い合える誰か、心を慰めてくれる自分以外の誰かの存在を必要とする人間の姿がそこから浮かび上がってくるわけで。プラネタリウムが映し出す宇宙とちっぽけなひとの世界、どちらもちょっと淋しくて読みながら心許なさにざわついたりもしたんだけど、確かに側に在ると感じられる存在に支えられて意外なほどの強さで着地できたような気がする。
というわけで、個人個人の人生に何が起きてもそれを包む世界の方はいつも変わらない凪のような静けさが全編を覆ってましたが、テンペルサイド・タットルサイドともざわざわと気持ちを揺らすエピソードがあってそれもよかったな。タットルの語るくらやみやかぜの鳥のものがたり。犬を失った後の兄貴の舞台はまるで目の前で見てるみたいに鳥肌が立ったよ…。泣き男も兄貴も栓ぬきも最初はみな独りでそれを淋しいとも思わずに生きていたけれど、誰かが側にいるというそのことが彼らの世界を動かしていくんだね。最初はふたりだけの小さな世界で生きていたテンペルとタットルもまた然り。決して楽しく幸せなだけの物語じゃないのに後味が悪くないのは、何も求めず関わらず生きていた時よりも空っぽじゃないから。宇宙の3分の2を占める「くらやみ」のように、そこに何かあると思えるからかもしれません。
プラネタリウム行きたいなー…

いしいしんじ(講談社)